田口塾の西口です。
先日、映画館で『スーパーノヴァ』(Supernova)を観てきました!
コリン・ファースのファンになってまだ1年弱なので、「コリンの映画だ」ということを意識しながら映画館で彼の映画を観るのは実は初めてでした(キングスマンは映画館で観ました)。
感想と考察を書いてみたいと思います。
※一部ネタバレを含みます
英語版はこちら↓
あらすじ
サム(コリン・ファース)とタスカー(スタンリー・トゥッチ)という2人の男性が、自然豊かな思い出の地をキャンピングカーでめぐる旅の話です。
2人は長年愛し合ってきました。
しかし、タスカーの若年性認知症が徐々に進行しており、記憶力や認知力に衰えがみられる中で、2人は今後どのように人生を歩んでいくのかという問題に直面しています。
演じる(act)のではなく、反応する(react)
私は映画を見ていたとき、サムとタスカーではなく、本物のコリンとスタンリーを見ているような感覚がありました。
彼らは脚本にしたがってカメラの前で「演じている」はずなのに、お互いや他の登場人物や出来事に対して、本心からごく自然に「反応している」ようにしか見えなかったのです。
特に、レストランで笑い合っている2人や、タスカーが車からいなくなってしまったことに気付いた時のサム。
それから、サムの家族の名前を思い出せなかったことをジョークだと思われて、苦笑した時のタスカー。
もちろんコリンとスタンリーが実際にどんな人であるのか、私は会ったこともないのでわからないけれど、2人の様子を見ていると彼らは現実にもこういう人たちなんじゃないかと思ってしまいました。
苦悩の表現
コリンはあるインタビューの中で、「スタンリーはタスカーが病気に苦しむところを表現したというより、自分の人生をコントロールしようとしているところを表現したんだ」ということを言っていました。
私も映画を観ながら、まさにそうだなと納得しました。
もちろん私たちは、タスカーが能力を失っていったり、それに悲しんでいる様子を見て、痛みを感じます。
でもその痛みは、タスカーが今まで通り普通に物事を考えたり、人々と話したり、サムを愛したりするのを見て初めて「共感」に変わり、私たちの心に深く刺さってくるのだと思うのです。
普通であろうとするというのは、私たち人間のリアルな行動原理みたいなものなのかもしれません。
コリンは別のインタビューで、「ある人が酔っている時、その人は酔おうとしているのではない。実際には、酔っていないように見せようとするんだ」と言っていて、確かにそうだなと思いました。
その意味で、スタンリーの表現はすごくリアルに感じられるんだろうと思いますし、コリンの演技にも同様にそういう現実味が乗ってくるんだと思います。
曖昧さと暗示
映画の中で、2人の物語は明確に終わってはいません。
物語を通して最も大きな問題は答えが出ないまま映画が終わるし、2人の旅の結末もはっきりとは示されていないのです。
コリンが朗読していた別の小説の話で、以下のような地の文がありました。
「物語というのは、始まりもなければ終わりもない。誰かが恣意的に、ある経験のどこからどこまで語りたいかを選んでいるだけなのだ」
そう考えると、スーパーノヴァの物語をつくった人たちは、サムとタスカーがどんな風に互いを愛するのかを描きたかったから、曖昧さを残したままの結末にしたんだろうなと思いました。
その点において、彼らの人生が結果としてどうなったのかという部分は、重要ではないのでしょう。
またこの映画の中では、結末以外にも、不明瞭なままにされている「示唆止まり」の表現がたくさん出てきます。
例えば、いなくなったタスカーをサムが見つけた時の2人の会話の内容。
それから、タスカーが自分の症状が悪化しているかとサムに尋ねた時の、サムの沈黙。
こういう曖昧さや暗示は、コリンやスタンリーのような本当に才のある演者によってしか成し得ない表現なんだろうなと思いました。
心を動かすのは「ギャップ」
私は、この映画がこれほどまでに人々の心に残るのは、まさにギャップがあるからだと思います。
「演じる」と「反応する」のギャップが、彼らの演技の自然さを際立たせ、
病気であることと普通であることのギャップが、病気が引き起こす苦悩の深刻さを伝え、
明確な問いと不明瞭な答えのギャップが、私たちに「自分だったら」と考えさせてくれます。
私たちはたいてい、予期していたものや望んでいたものと違うものに出くわした時、感情が激しく波立つのです。
それはちょうど「スーパーノヴァ」、つまり超新星のようなもの。
生命は死に向かって衰えていくものだと思われていますが、超新星というのは、星が最も死に近い時、最も明るくなるような現象なのです。
サムとタスカーが彼らの「終わり」を目前にした時、タスカーの魅力は最も顕著になり、サムのタスカーへの愛は最も強くなったのだと感じました。
以上、田口塾の西口でした!